龍生院の納骨堂がもたらした新たな供養のカタチとは。

私には地元がある。

都内から東海道線を乗り継ぎ、片道2時間半かけてたどり着く海辺の小さな街だ。

25歳の時に上京し、次男ということもあり、田舎に帰るのは年に一度か二度、都内の中堅企業に勤めてひたすらに汗を流し、そして愛妻を持ち、息子や娘に恵まれた。

 

人生の半分以上はこの東京で過ごしている私にとって、地元というのはもはや昔の思い出の場所であり、そこに安息はなく、この東京の喧騒が私にとっての子守唄だ。

 

最近常々思うのは自分の死後のことである。

息子は来年に入籍し、家庭をもつ。

根っからの東京生まれ東京育ち。

そして妻もまた、東京生まれの人間だ。

 

私が死後どこに眠りたいのかを考えればやはり東京になる。

当然妻も同じ墓に入るのだから尚の事である。

 

しかし、都内に墓を持つというのは決して安いものではない。

墓というものを持つ時、その墓石を置く土地を寺から買うわけではない。

 

永代使用料という名目で寺からその土地を先祖代々まで使わせてもらいますよ。

という契約金という形になる。

 

これは寺によって様々であり、尚且つその寺に入る場合は葬式や通夜でそこの住職にお経をあげてもらい、数十万円という心ばかりをお渡しするのが慣例だ。

 

これを葬式(一般葬儀)を直接火葬場で供養する直葬であったりすれば大トラブルになる。

私的な見解ではあるが、人の死一つでの住職の主な収益は以下の通りになると思う。

 

・墓の永代使用料

・戒名代

・お経や説法などでの心ばかり

・その他、法事などでの都度の寄付

 

直葬だけで戒名も授からずお骨だけお寺にもっていったりすれば住職からすればただの金にならない客である。

居酒屋に酒もつまみも持ち込みでお通し代しか支払わない客のようなものだ。

 お寺というのは上記全てがビジネスであり、全てが揃ってパッケージなのだ。

 

今まではこの事実は触れてはならない聖域、腫れ物のようにマスコミにも扱われていたが、

この後期高齢化社会で人の死がより日常的に溢れ、景気の回復も希望が見えない世の中ともなれば倹約家達が冠婚葬祭に目をやるのも当然の流れであるといえる。

 

まして今は結婚式ですら格安プランのスマ婚、写真だけのフォト婚などの需要がある時代である。

葬式や葬儀、供養にも同様に目が向けられるのはごく自然な流れだ。

「坊主丸儲け」という言葉がある。

これは宗教法人が非課税であり、更に信仰という専売特許でその法外とも言える戒名という文字列を買取らせ、支払わないことは仏に背を向けることと同義として育てられた慣習に向けられた皮肉だ。

事実墓石まで含めれば都内に墓を持つのに必要な経費は500万はくだらない。

少し過激な文章になってしまっているが私は決してそれらを批判しているわけではない。

しかし、私のような考えを持つ人間が現れることはごく自然な時代の流れなのである。

 

少し前置きが長くなってしまったが、私だけではないこの後期高齢化社会、都市に暮らす団塊の世代にとって耳寄りな新サービスが発表されたことである。

 

それは三田の高野山、龍生院が建立した納骨堂という移動式ロッカー型墓苑、三田霊廟。

 

気になるその内容については次回から羅列していきたいと思う。